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大谷翔平が千両役者ぶりを発揮している。「大谷なら当然」という声がある。彼の凄いところは、何れも淡々とやり続けることだ。急かず、あわてず、腹の底に自信と言うものが、どっしりと存在するのだろう。その裏付けは努力であり「ローマは一日にして成らず」と言うけれど、その成功の裏に、たゆまざるGOとthinkが隠されて、途方もない汗が流されているのである。おそらく、大谷の掌はがさがさで、筋肉は悲鳴を上げているのだろう。それでも、彼は鍛練を怠らない。自分の中に、限界を設けないのである。その意味で、巨大な阿呆である。常識を逸脱した荷重は、それまでは不可能とされていた領域を、少しずつ押し広げていく。それはまさに人間業ではない。神の領域に踏み込んでいるといえる。そして、野球の神様は微笑むのである。一球入魂、神と人間の融合、幸福な出会いを、われわれは目にすることができる。平常心、このたった三文字、当たり前のようで、それは容易にできることではないのだ。日本国は大きな大陸の端に、かろうじて残ったか細い列島である。でも、これほどに、自然に恵まれ、これほどに勤勉な人間が集うという僥倖に恵まれた。南から北から東から西から、季節風は吹き、峻厳な山が背骨のように走っている。おかげで、山に雨が降り、雪が降り、風を呼び、流れ落ちた雨粒は、大地に実りをもたらす。それがたとえ、猫の額ほどであっても、四季折々の風景が、えも言えぬ情景を呼び込んで、地方地方の文化を生み育てて来たのである。江戸時代は、奇跡の時代であって、文民統治は徹底され、領主はいたとしても、搾取は比較的少なく、実質は、四民平等が貫かれていた。勿論、差別も、貧富の差もあったのだが、それがとことんまで行くと言うことはなかった。良民あっての領主であることは自覚されていたからである。郷土土産、郷土文化、地方の独自性とその誇り、先祖への畏敬の念、日常としての感謝、自然への恐れ、そこに神々の存在があって、どこかルーツが繋がっているのである。一人一人の中に、社であって、心で見えない祖先と繋がっているのである。何かしら、今の世界、混とんとしながら、日本の時代が、すぐそこまで来ているような気がしている。
神々は そこにおわすと 想いつつ 畏敬の気持ち 忘れずに持つ
雪の山 輝く緑 おりおりに 織りなす景色 しっとりとある
常識は 非常識の 積み重ね 思わぬ果実 たわわに実る
弥栄は かわらぬ日々の おもいおば そこはかとなく 漂いにけり
2025,4,4(金曜日)
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