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どうもこの頃、自らを励ましながら、日々過ごしている。つまり、いつも坂道に感じ、それもつま先あがりなのである。でもそれは幻、自分がそう思うから、そう見えるだけなのだろう。お歳としですねぇ?と言われれば、そうそのとうり、お歳なんです。だがまだまだし残したことばかりだから、終わりそうもない。どうあがいても、どうにもならないというのに。でもそろそろ上がりにしようという気にはならない。しぶとく、仕舞にまわりに嫌われてしまうだろうが、尚もしぶとく暮らしていくつもりである。まあ、それが身上でもあるから。向こう岸から、あるいは山の上から、様々に下界を眺めながら、この道しかなかったと思えてくるのは、幸せかもしれない。以外の道を邪魔されたのも確か、でもそれはそれ、そういうものなのであろう。天命、天職、宿命であった。それらを損得で勘案したら、どうなろうとも、ここにしか道はなかった。適当な風も吹き、たまに陽が当たって、程よく優しかったのも事実である。分相応、だから満足している。やけくそはあったが、無理をしたことはない。あのときどき、足を踏み外していたら、大変なことになっていただろう。それも事実だが、何となく助かって来た。助けてもらってきた。それらの事実、誰に、どのように、具体的に説明こそできないが、何度かの危機や岐路は存在した。そのたびに、何となくやり過ごすことが出来たのは、きっと運があったたのだろう。だから、きっとこの先も何とかなると確信に近い気持ちを持っている。『誰か、きっと拾ってくれるだろう』という他力本願、でもこの世に生まれて来た限り、自分でやれることはやらねばならぬ。何となく水は下流へ落ちていく。物事はそれなりに収まって行く。それを諸行無常と読んだ。他力本願、無茶振りしてもどうしようもないのである。歳とともに、御山は近づいてくる。それはいやおうなしである。80歳は締めではない、90歳も100歳も、終わりはない。この世の中、諸行無常は当たり前のことで、人間如きがいちいち文句をつけれるはずはない。それは動かぬ原理である。無理を通せば、道理はへこむ。水は低い方に流れ、やがて海へ落ちていく。循環して再び空へと返って行く。そこに悠久の時の流れがたゆまなく移動していく。「おーい、ときよ」といくら呼んでも、風は立ち止まり、振り返ってくれない。
そこにある 時のしずくよ ひとときは 寄り添いながら やがて離れる
旅枕 己の想い つきねども やがてはねれば 静かにとじる
友の顔 重なり合って 楽しかる 屈託のない あっけらかんと
危機もまた 思い返せば 懐かしい よく超えて来た なんの助けや
2025,9,4(木曜日)
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