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あどけない 頬にみなぎる 闘志おば 不思議でならぬ その源が
宝物 石くれの中 今もあり 捨てられもせず 捨てもならずに
天の意志 脈々とし 受け継がれ 壊れたはずが 滅びもしない
大河あり 滔々として そこにあり この地球の いくとし生ける
9歳小学校4年生で数学検定1級を取得したお子さんが西宮市におられるという。安藤匠吾君である。その新聞の写真を見たとき、友人の安藤君を思い出した。顔立ちがよく似ているのである。しかも数学天才である。勝手に安藤和彦君のお孫さんではないかと思った。『手紙を書いてみよう』ふと思ったのであるが、名字は同じでも、確率は極めて低いのである。思いとどまることにした。思い出は思い出として、大事にしまっておこうと。5年生の安藤君は、生田中学、神戸高校、京都大学に行き、川崎重工へ行くのだと言っていた。その通りに京都大学理学部へ進学、川重に行かずに、大学に残ったようだ。30歳のころ早逝した。そのとき、理学部助教授であったようだ。彼には、一粒種の男の子がいたという。おとうさまが川重の社長職を辞退して、孫の養育に当たると宣言したのだそうだ。そのお子さんは多分40半ばであろうと思われる。そうすると、西宮は近いし、匠吾君が和彦君のお孫さんである確率はいくらかはある。とびぬけて聡明であった彼は、私の中でいつも笑顔で生き生きしているのである。毎朝、事務所へ向かうとき、会下山が目に飛び込んでくる。『安藤君が住んでいたな』と確認しているのである。何年か前、坂道の彼の家が建っていたところまで行ってみた。そこは公園の一角と化していた。しばしとどまったことがある。いつか彼と話ができる時がかならず来ると確信していた。元川重の常務をなさっていた高田さんに尋ねたことがある。そのとき、高田さんは川重子会社の社長をなさっていた。その会社の登記のことで親しくなったのである。「社長、川重に安藤和彦さんという方はおられませんでしたか?」と尋ねた。「えー、君知ってるの」と驚かれた。それで、その後の彼のことが分かったのである。子供の時の思い出は、箱に入った宝物なのである。人から見れば、ただの我楽多ばかりだろう。60年以上の年月が過ぎ去ってしまxzつた。箱もずいぶん古びたものだ。蓋を開けても、もうメロデーは流れない。『いいニュースを見せてもらったな』とどこからか声がした。そうだ、また会下山へ散歩に行こう。川重のガントリークレーンはもうなくなった。高い建物が立って、海は上部に追いやられた。でも、今もきっと望めるはずである。
われもまた 一陣の砂 帰らざる 川のごとくに また戻りきぬ
雨だれが 響く山里 踏みしめて 音なき音の ありか尋ぬる
なつかしき 面影さがし しみじみと 月日の裾の 長くたなびく
琴の音は 弾く人があり 染みわたる 未練の糸が われをいざなう
2019,12,11(水曜日)
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