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高校時代からの親友が土曜日になくなった。実にいいやつだった。彼の生涯は肩に力の入らないよい人生だった。子供の時から、遺伝性糖尿病であったが、実にうまく病気と付き合い、調整をして、細く長く生きたのである。われわれの時代は、どちらかと言えば、就職難であったし、大会社に勤めたわけではないが、彼もそこそこの規模の会社に勤め、本来社長になるはずだったが、そういう出世欲はなかったから、貪欲ではなかった。会社では、随分慕われていたようであった。高校二年と三年生のクラスは一緒で、ほどほどに何事にも気を抜いて暮らしていたから、学校ではよくしかられたものである。だから、母親同士も学校に呼び出され、一緒に担任の先生から注意を受けることがあったが、我々は一向に反省していなかったし、親もあきれかえっていた。担任の天性は、頑張れば国立わたしは大学進学も可能だと励ましてくれたが、我々は励むことはなかった。わたしは関西学院の法学部、彼は一浪してやっぱり社会学部にはいってきた。もし同時期に学校に行って、同じ学部だったら、多分私はドロップアウトせずにすんだの位かも知れなかった?そしたら、どんな人生が待っていたのだろうか?想像はつかないが、回り道して、やっぱり司法書士にたどり着いたのか?それともまったく別の道が待っていたのかも?性格は似通ってはいたが、いづれにしても、真ったく別々だったから、馬が合ったのかもしれない。彼とは家も近くて、性格も共通点は多かったのだが、勿論いろいろ違ったのである。運動神経は彼のほうが発達していたが、私は何をしても鈍感で、しかも熱心さもなかった。その点滝川という高校は、何事もそこそこそこ、女子生徒もいなかったから、燃えることもなかったのである。われわれの集まりは「激流会」と称し、一年に二回ほど、集まって、飲み会をしたり、旅行したり、ごろ寝をしたり、気ままに過ごしていた。私は一人ぼっちの頃があったが、その頃に声がかかって、集まるようになって、随分と助けられたのである。その点、随分感謝している。ついに今は4人になってしまったが、誰が、いつ、なにがあっても、可笑しくなくなってしまったのだ。人生は、マイペース、そして、明日なにが待っているか?誰にもわからないのである。だったら、思い切っていこう。思い残すことなく。 つじつま
待ってても 先回りしても 同じこと 所詮つじつま つくはずだから
立ち止まり 相談かけて 思案して 結局同じ 答えまってる
ありがとう お礼を言えば そちらから 同じ答えが 返ってくるよ
2025,11,25(火曜日)
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